

プロローグ
90年代の横浜。高校時代に買い物で初めて元町を訪れた真美は、異国情緒あふれる横浜に魅了された。これがきっかけで横浜で大学生活を送りたいと思うようになった真美は、受験勉強に励んだ。中高一貫校の女子高に通っていた真美には、共学への憧れも少なからずあった。
港が見える丘公園から山下公園に向かう坂からは、赤い色をしたマリンタワーが見えた。高校3年生の夏、横浜大学のオープンキャンパスの帰りに真美が目にしたこの風景は、横浜の原風景として真美の心に深く焼き付いた。
山手のテニスコートでは、テニスをしている学生たちがいた。高校時代は体操部だった真美は、この時、大学に入ったらテニスを始めてみたいと思った。
小説 ヨコハマ センチメンタル ナイト
憧れていた横浜の大学に合格した真美は、桜が咲くキャンパスを歩いていた。大学に入ったら、テニスサークルに入ろうと決めていた真美であったが、テニスは初めてだった。校舎にたどりつくまでの間、何度も上級生たちに囲まれた。真美はいくつかのサークルから勧誘されたが、イケメンの部長さんに勧誘されたことがきっかけで、彼が所属するテニスサークルに入ることにした。
スポーツマンでさわやかな3年生の部長・徹(とおる)の周囲には女子部員の取り巻きがいつも何人もいた。部長と同じ学年の副部長・圭吾(けいご)は、部長と対照的なまじめな感じのメガネをかけた控えめの人だった。二人ともテニスがとても上手で、二人がラリーを始めると、人だかりができるほどであった。
「おい、圭吾、真美にテニスを教えてやれよ」と徹は副部長の圭吾に言った。「え?僕が教えるの?」と、圭吾は少しとまどって言った。真美は、正直なところ、徹に教えてもらいたかったとのだが、新入生の立場でそんなことは言えるはずもなく、圭吾に「お願いします」と言った。
それから圭吾は真美を相手に、ラケットの持ち方やサーブの打ち方など、一つずつ丁寧に教えていった。真美は、圭吾とラリーをしながら、横で別の女子部員とラリーをしている徹が気になっていた。そんな真美に圭吾は「いつか僕に勝ったら、僕が一番好きなお店に連れて行ってあげるよ。とてもおいしいフレンチの店があるんだ」と言った。「はい、その日が来ることを楽しみに、がんばります」と真美は答えたものの、「これが徹さんからのお誘いならば、もっと嬉しいんだけどな」と思った。それでも真美は、テニスに打ち込んだ。
ボールを自由自在に打ち返せるようになった楽しさを知った真美は持ち前の運動神経の良さで、めきめき上達していった。しかし、初心者の真美に一からテニスを教えた圭吾は、真美のサーブの癖を知り尽くしていた。そんな真美のサーブは、どうしても圭吾に打ち返されてしまうのだった。
学部の友だちやサークルの仲間に囲まれて学生生活を楽しんでいた真美に、大学に入って3回目の春が訪れようとしていた。それは徹と圭吾の卒業が近づいてきているとことであったが、真美はまだ徹に想いを伝えることができずにいた。そんなある日、「真美、僕が卒業する前に試合をしてみるか」と圭吾が言った。腕が上がっていたことを自覚していた真美は、「はい、お願いします」と答えた。
2月の下旬、圭吾の卒論の審査が終わった日の午後、真美と圭吾は山手のテニスコートにいた。部員たちが見守る中、二人の試合が始まった。同点で迎えた真美の最後のサーブが放たれた。圭吾は、踏み出すのをほんの少し遅らせた。真美の1点が入り、試合が終わった。「真美、ずいぶん、強くなったな。もう僕が教えることは何もないよ」と圭吾は言った。「ありがとうございます。先輩のおかげです」と真美が答えた。
真美は汗を拭きながら観客席を見ると、徹と後輩の女の子が寄り添って坐っているのが見えた。以前から、二人の仲はうわさされていたが、目の前で二人が一緒にいるのを見せられるのは、真美には辛かった。圭吾に勝ったうれしい表情が消え、みるみるうちに青ざめていく真美をみた圭吾は、「おやおや、僕に勝ったのにうれしくないのかい」と真美に言った。「いえ、そういうわけではないです」と肩を落としながら真美は言った。「そうだ、次の土曜日、前に約束したお店に行こうか」と圭吾は真美に言った。真美は泣きそうになるのをこらえて、「はい、お願いします」とつとめて明るく答えた。
土曜日、圭吾は車で真美を迎えに来た。二人は、圭吾が予約したお店で食事をした。その店は、横浜でも歴史のある老舗のレストランだった。「こんなにおいしい料理を食べたことがありません。先輩、ありがとうございます」と真美は言った。食事を終え、帰りの助手席から横浜港に沈む夕日が見えた。真美は、「山下ふ頭に寄ってください。少し、海が見たいです」と言った。圭吾は、「分かった。寄り道をして帰ろうか」と言って、山下ふ頭まで車を走らせた。
埠頭に車を停めて、二人は岸壁に座って海を眺めた。真美の目からは涙が流れていた。「私...」と言った真美は、泣き出してしまった。圭吾は「わかっているよ。徹のことだろ」と言った。真美は「はい」と答え、圭吾の肩にもたれかかった。二人の手と手が触れたが、お互いにそのままにした。しばらく時間が流れた。
3月が終わりに近づいたある日、4年生の追い出しコンパが、港の見える丘公園近くのカフェで行われた。徹と圭吾は、卒業証書を片手にスーツ姿で現れた。真美がスーツ姿の圭吾を見るのは、初めてだった。大人っぽく見える圭吾の姿に、真美はとまどった。「僕は田舎に帰って、銀行に就職することになったよ。サークルとも真美ともこれでさよならだよ。楽しかったよ、ありがとう」とワイングラスを持ちながら圭吾は言った。「はい、ありがとうございます。先輩のおかげで、テニスの楽しさを知ることができました。4月からは、私が副部長になります」と真美は答えた。「そうかい、がんばれよ」と、圭吾は真美の肩を軽くたたき、4年生の輪の中に戻っていった。
夜9時を過ぎ、追い出しコンパが終わった。サークルのみんなは、駅に向かって歩きだした。「真美、駅はこっちだよ」とサークルのみんなが真美に声をかけたが、真美は「私は用があるから」と一人で山下公園に向かった。真美は、なぜか一人になりたかった。真美は、歩きながら、これまでに感じたことのない寂しさを感じていた。真美が初めて圭吾への気持ちに気がついた瞬間だった。真美の心には、圭吾との日々が思い出された。ゆっくり坂を下ると、遠くに霧笛の音が聞こえた。
1st 2023.2.23
2nd 2023.2.25
3rd 2024.7.15
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作者あとがき
久しぶりに横浜を訪れた私は、高速道路から見えるマリンタワーを見た。いつの間にか銀色に塗り替えられていました。
サークルのみんなは、今どうしているのだろうか。私はふとサークル活動に打ち込んだ頃を思い出し、いつまでも続くと思った学生時代がいつの間にか終わっていたことに気づきました。
妻と私は横浜で同時期に学生生活を送りましたが、妻とは別の大学でしたので、その当時は面識がなく、お互い知り合ったのは大学を卒業してからのことです。